第1章 印旛沼の歴史

1.1 印旛沼の誕生

 有史以前の縄文および弥生時代における印旛沼は、現在の鹿島(茨城県)や銚子(千葉県)の方向から内陸に向かって広く開けた「古鬼怒湾(こきぬわん)」と称された内海の一部で、印旛浦と呼ばれていた。水は淡水でなく、海水であったことは、利根川下流部の低地と台地が接する境界域の貝塚からアサリ、バカ貝、マガキ、ハマグリ、サルボウ、タマキ貝などの海産性や汽水性の貝類が数多く発掘されていることから明らかである。

 一方、ここで、現在、使われている「印旛」という漢字について、8世紀代には「印波」と書かれ、実際、和銅6年(713年)に筆録された「常陸国風土記」の中では、“古き伝えに日へらく、大足日子(おおたらしひこ)の天皇、下総の国の印波の鳥見の丘に登りまして…”と記され、読み方としては「いには」であった。そして「印旛」、もしくは「印幡」と書くようになったのは8世紀以降、大体、奈良時代から平安時代にかけてであり、現在の「印旛」という書き方に落ち着いてきたのは中世以降、12世紀を過ぎた頃だといわれている〔平川(2010):古代の成田と香取の海、成田市史研究、第34号〕。

 これはさておき、今から1,000年ほど遡った印旛沼は、天平宝字3年(759年)に約4,500首を収録した歌集の「万葉集」の中で、

「大船の香取の海に錨おろし、いかなる人か物念(ものおも)はざらん」

と詠われている香取の海、いわゆる第1.1図に示すように〔千葉県:「千葉県の自然誌 本編1 千葉県の自然」、平成8年発行〕、現在の霞ヶ浦(茨城県)や北浦(茨城県)、牛久沼(茨城県)、手賀沼(千葉県)、そして千葉県の水郷一帯を一つにした水域の一角にすぎず、水の性状は今のように、淡水ではなく、淡水と海水が混じり合った汽水であったと考えられている。


第1.1図 約1000年前における関東地方の地勢と印旛沼

 その後、香取の海は、流域から河川が運んでくる土砂等の堆積や、海退によって徐々に陸化し、縮小していったといわれている。しかし、印旛沼や、隣接の手賀沼などのような小さな入り江は陸化から取り残され(現在の茨城県の牛久沼および霞ヶ浦などもその痕跡とみなされている)、自ずと湖沼化を辿らざるを得なかったのである。この中にあって、印旛沼が、さらに湖沼化を辿るに至った決定的な出来事は、小田原城を攻め北条氏康を征伐した手柄より豊臣秀吉から関八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の関東八カ国)を与えられた徳川家康が天正18年(1590年)に江戸に入府し、間もなく治水巧者として知られていた伊奈熊蔵忠次(備前守)に命じて行った「利根川東遷事業」、いわゆる、当時、第1.1図に示したように、関東平野の中央部を南流し、荒川を合わせて、現在の隅田川筋をくだり、江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを銚子の方向に向かわせようとする河道変更後からである。この河道改修の目的については詳細な史料がないため、いろいろと解釈され、今なお、明確ではない部分があるものの、種々文献を整理してみると、要は江戸を水害から守ること〔当時、現在の東京の江戸川区葛西や台東区浅草あたりはかなりの湿地帯で、しかも利根川(墨田川)が氾濫するたびに洪水に見舞われていた〕、新田開発によって農業の安定化を図ること、そして千葉県のみならず、東北地方や茨城県からの物資(産物)を運ぶための水運(舟運)ルートの整備などを目的として行われたものであると推されている〔大熊孝(1981):利根川治水の変遷と水害、東大出版社〕。

 工事は、第1.2図に示したように〔千葉県柏土地改良事務所:「東葛地域の田園づくり」、平成12年発行〕、文禄3年(1594年)の「会の川の締め切り」工事に端を発した(現埼玉県羽生市の北部に位置する川俣地区が工事の始点とみなされている)。その後、元和7年(1621年)に利根川を渡良瀬川に結び入れる新川通(現埼玉県の加須市から久喜市までの流路を指していた)および江戸川の開削と並んで利根川東遷において最も大規模な事業であった赤堀川(現埼玉県久喜市から千葉県野田市関宿までの流路を指していた)の開削工事、続く寛永年代(1624~1643年)の江戸川、権現堂川(現埼玉県久喜市から茨城県五霞町の南部域を流れ、千葉県野田市関宿で江戸川に通じるまでの流路)、逆川(権現堂川と江戸川の分岐点から、茨城県の五霞町の東部域を通り、境町地先の常陸川に至る流路)の開削、そして承応3年(1654年)の利根川を常陸川(鬼怒川)筋に結ぶ赤堀川の開削工事と、実に60年の歳月を掛けて、現在の利根河道の姿に変えたのである。しかし、東遷事業が完成した時には、すでに徳川家康は他界し、徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光と時代は変わり、四代将軍家綱の時代になっていた。


第1.2図 利根川東遷事業の工事と現在の利根川

 この長期にわたる工事の完成は、当初の目論見どおり、江戸を洪水から守る役割を果たしたと同時に、広く関東平野における洪水の防御、灌漑、新田開発に寄与し、また舟運整備によって江戸を中心とする関東各地、さらには東北各地を結ぶ物資輸送の動脈を確立した。しかし、一方では利根川上流からの多量の土砂等が下流に運ばれ、堆積し、その結果として印旛沼は、かつての地形に近い姿に生まれ変わることになったものの(後述する「印旛沼開発事業」以前におけるロ-マ字のW字に似た形状)、利根川の氾濫のたびに利根川の水が印旛沼に逆流し、多大な洪水被害を蒙ることになった。

 この意味では、徳川幕府が行った「利根川東遷事業」は、印旛沼にとっては、後述するように、昭和期の「印旛沼開発事業」が完成するまで、まさに水害(洪水)と、その防止のための開発の歴史であったといえる。

1.2 印旛沼の洪水対策と開発

 利根川東遷事業の完成後、印旛沼および周辺で頻繁に起こった洪水(水害)は、ただ単に利根川の氾濫のみによってもたらされただけではなく〔外水*注1)と称されるとともに、この氾濫は日光連山の降雨によって生じることが多かったため「日光水」ともいわれ、沼周辺の人々に最も恐れられていた〕、印旛沼に流入する河川の増水によっても引き起こされていた〔内水*注2)と称されていた〕。

*注1) 外水(そとみず)とは、利根川の氾濫によって印旛沼に逆流する水をいう。

*注2) 内水(うちみず)とは、印旛沼に流入する河川の増水にともなう水をいう。

 このような状況を背景に、徳川幕府は利根川や印旛沼の洪水による被害を防止することと、さらに新田開発や舟運の整備等を目的として、江戸期に大規模な開発工事を約60年置きに計3回行った。しかし、これらの工事は、後述するように、いずれも金銭的、人的に大きな犠牲を払うとともに、すべて失敗に終わり、その後における印旛沼は、まさに甚大な洪水被害とともに歩む歴史であった。

 これら洪水の歴史の中で江戸末期以降に起こった主な洪水被害の記録についてかいつまんでみると、江戸末期では弘化3年(1846年)、安政3年(1856)と安政6年(1859年)、そして明治期に入ってからは、大雨が続いた維新直後の3年間〔明治元年(1868年)~3年(1870年)〕、明治維新後の最大級規模といわれる明治23年(1890年)の大洪水、明治25年(1892年)、明治27年(1894年)、印旛沼で未曾有の洪水と称されるとともに、この洪水を契機としてわが国において河川法が制定されることとなった明治29年(1896年)、さらに明治末期における明治39年(1906年)、房総沖を通過した3個の台風によってもたらされた明治40年(1907年)、明治期最大でしかもその規模は溺死者その数を知らずといわれる天明6年(1786年)の大洪水に匹敵するといわれる明治43年(1910年)のそれぞれの年にもたらされた洪水被害は印旛沼の歴史に大きく刻まれている。

 しかし、大正期に入ってからは、上述した明治29年(1896年)の洪水を契機に本格的に開始された利根川の第1期改修工事〔明治33年(1900年)~明治42年(1909年)〕において行われた河口から佐原までの延長42kmにわたる低水路開削などの工事、また第2期改修工事〔明治44年(1911年)~昭和5年(1930年)において佐原から取手に至る延長52kmの間の河道浚渫や築堤護岸工事とともに行われた大正元年(1912年)の利根川派川の将監川の締め切り工事、さらには利根川と印旛沼を結ぶ用排水路とも準える長門川と利根川の合流地点に後述する吉植庄亮の父親、吉植庄一郎の尽力によって完成した印旛水門〔大正7年(1918年)8月1日に起工、大正11年(1922年)3月31日に竣工〕によって利根川の洪水時に起こる印旛沼への逆流(外水)は制御、また大正11年(1922年)に内水防御のため、同水門に設置された蒸気機関による小規模な排水ポンプの建設によって印旛沼の洪水対策は、一応成功をみたといえ、実際、大正期には、大きな洪水被害は記録されていない。

 しかしながら、昭和期に入り、昭和13年(1938年)に活発化していた梅雨前線が台風の影響を受け引き起こされた集中豪雨によって内水水害が生じ、上述した排水ポンプは完全に破損し、使用不能となった。この後は、再び印旛沼および周辺域で相変わらぬ洪水被害を受けることになり、特に昭和16年(1941年)の梅雨前線の活動にともなう集中豪雨による洪水は明治以来100年間の中で印旛地方を襲った最大級の被害をもたらした。そして昭和22年(1947年)9月には利根川改修改訂計画(基本高水量を17,000m3/秒に見直し)の策定〔昭和24年(1949年)〕の動機となったカスリーン台風、昭和23年(1948年)のアイオン台風、昭和24年(1949年)のキティ台風、昭和25年(1950年)の熱帯低気圧のそれぞれにともなう豪雨、また昭和33年(1958年)のヘレン台風によってもたらされた洪水による水害は大規模な例として挙げられるが、小規模の洪水およびそれに伴う洪水被害については枚挙にいとまがないほどである。特に、昭和10年(1935年)の内水、昭和13年(1938年)の外水、昭和16年(1941年)の外水による3年置きの印旛沼の洪水では「米の収穫が3年に1度あれば良い方である…」と農民に言わせるほど、悲惨な洪水被害を被ったのである。

 このような洪水の歴史のなかで、万全の対策が講じられ、そして印旛沼が水害から完全に解放されるようになったのは、太平洋戦争の敗戦にともなう食糧難と引き揚げ者の失業対策として昭和20年(1945年)に閣議決定された「緊急干拓事業」の一つとして、昭和21年(1946年)1月に政府決定による農林省直轄事業の「国営印旛沼・手賀沼干拓事業」からである。その後、この事業は昭和38年(1963年)に「印旛沼開発事業」と名称を替え、事業は農林省から水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)に移管され、昭和44年(1969年)3月に竣工した。この事業の完成後は、印旛沼で特筆するに値する洪水はほとんど経験していない。これは、江戸期の「天保改革」に敏腕を振るった水野越前守忠邦(浜松藩主)による印旛沼開削事業が失敗して、実に125年の年月を経てのことである。

 以下、さらに江戸期に行われた印旛沼の水を江戸湾(東京湾)に落とす、いわゆる「落し掘り」とか、「掘り割り」と称される3回の工事について詳細に述べるが、昭和期の「印旛沼開発事業」については、その後の印旛沼の歴史を左右する画期的な出来事として、項を改めて詳述する。

1.2.1 江戸期における掘割工事

 江戸期は元禄文化で代表されるように、下層町民や地方の農民にいたる庶民まで多彩な文化が飛躍的に発展する一方、社会的には凶作・飢饉が繰り返し起こっていた。なかでも、亨保6年(1721)~亨保19年(1734)の亨保の飢饉、天明2年(1782)~天明7年(1787)の天明の飢饉、天保4年(1833)~天保10年(1839)の天保の飢饉は江戸三大飢饉と呼称されているが、特に天明の飢饉、すなわち天明2年(1782年)の奥羽地方の冷害から始まった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火が加わって、江戸時代最大規模の大飢饉となった。

 このような深刻な飢饉を背景に印旛沼では、江戸期にほぼ60年置きに三度の大規模な掘割工事が行われた。この工事は、基本的には、いずれも印旛沼の西端にあたる下総国平戸村(現八千代市平戸)から検見川村(現千葉市花見川区検見川)の海岸までを水路で結び、印旛沼の水を江戸湾(東京湾)に落とすことであった。しかし、工事の主な目的は、後述するように、当時の社会的経済的状況を背景にそれぞれ異にしていたが、掘割工事そのものはいずれも、ことごとく失敗に終わっている。

(1) 享保の掘割工事

 承応3年に完成した利根川東遷事業後、利根川の洪水は頻繁に起こり、それが印旛沼に逆流し、沼尻にあたる下総国平戸村〔現八千代市平戸であるが、当時、平戸村は神崎川と平戸川(現新川)で挟まれた地盤が低い土地であった〕では、度々、水害を被る一方、平戸川および神崎川の流域では内水氾濫による水害が激化していた。

 このような状況を背景に、平戸村の名主・染谷源右衛門ら数人は、享保9年(1724年)8月に印旛沼の洪水被害を防止することを主な目的として、さらに新田開発を加えた目論見書を幕府(八代将軍・吉宗)に願い出たのである。その頃、幕府は、深刻な財政難に陥り、その解決を担う「亨保の改革」*注1)の一環として、享保7年(1722年)に代官や町人が行う新田開発を奨励する高札(幕府の触書を書いたもの)を掲げていたことから、早速、紀州流*注2)の治水と土木の技術に才長けた幕史井澤弥惣兵衛ら3人の役人に現地を検分させ、その結果に基づく計画に添い染谷源右衛門を工事請負主として、第1.1表に示すように〔織田寛之(1893):印旛沼経緯記外編、金原明善〔発行者〕、8~9頁より一部抜粋・一部加筆して作成〕、平戸村(現八千代市平戸)から江戸湾の検見川村(現千葉市花見区検見川)までの約4里12町余(約17km)の掘割工事*注3を村請負*注4)(村普請ともいう)で行うものとする計画の許可と、数千両の資金を貸し付けた。

 しかし、この工事がいつ頃まで、どの程度までに進んだかは不明であるが、工事半ばにして源右衛門および同士の78名が負債を抱え工事が挫折してしまったことは、当時、幕府が貸し付けた資金の返納催促状が今なお残っていることからも裏付けられる。

第1.1表 亨保期における掘割計画

*注1) 江戸幕府八代将軍吉宗は、五代将軍綱吉が治めた元禄時代、六代将軍家宣、七代将軍家継時代における江戸庶民の贅沢な生活を禁止し、税金を高めた

*注2) それまで蛇行していた河道を強固な築堤と川除(川底を浚い、河川の氾濫を防ぐ)・護岸などで直線状に固定する技術のこと

*注3) 堀割工事とは、地面を掘って水を通す工事のこと

*注4) 村普請とは、村の責任で仕事を引き受けること

(2) 天明の掘割工事

 亨保の掘割工事が挫折した後の寛保期から天明初期の約40年間においても、印旛沼周辺では洪水が依然として頻発し、被害をもたらしていた。特に、安永9年(1780年)6月における梅雨末期の集中豪雨は関東全域に水害を招き、印旛沼においても鹿島川、平戸川(現新川)および神崎川の各流域は出穂期の稲作が大きな被害を受けたといわれている。そしてこの水害が動機となって、同年8月に印旛郡草深新田(現印西市草深)の名主香取平左衛門と千葉郡島田村(現八千代市島田)の名主信田治郎兵衛は地元の普請として、幕史伊達唯六に印旛沼開削の目論見書を進達した。この目論見によると、掘り割りは190に区割、そして区割りごとに掘り割り間数、平均幅と深度、面積(坪数)、人夫数、賃金などを細かく計上しているが、それらを取りまとめた計画内容は、第1.2表に示すとおりである〔織田寛之(1903):印旛沼経緯記外編、75~87頁に一部加筆して作成〕。また、この開削事業では利根川の氾濫による印旛沼の水害を防ぐため枝利根川(現将監川)を利根川本流から締め切り、また長門川の上流のマケ俵口と下流の安食口の六観音下に三連の観音開きの閘門を設けることが計画された。このことによる排水受益地区は144村、そして石高では42,718石(約7,705トン)にもおよぶ壮大なものであった。

 この目論見を受け(もともとこの平左衛門らの計画は、町人から資金を借り入れ、地元で請け負う町人請負で行うものであった)、徳川10代将軍家治の下で老中田沼主殿頭意次は天明元年(1781年)2月に幕史を実地に巡検させ、天明2年から江戸浅草の長谷川新五郎と大阪の天王寺屋藤八郎などの大商人の資金を積極的に活用し〔工事成功の際には、工事によって得られる新田の8割を出資者(天王寺屋、長谷川)の取り分とし、残りの2割は地元の世話人(香取平左衛門と寺と村の名主信田治郎兵衛)に分配する〕、印旛沼開墾を幕府直営で行うことを決定した。

 工事は、天明2年(1782)7月に始まったが、天明3年(1783年)7月の浅間山(群馬県・長野県)の大噴火によって流出した火山灰によって利根川の河床が上昇し、辺り一帯に被害が生じたため一時中止された。その後、工事は天明4年10月から本格的に行われ、作業も3分の2ほど捗ったが、不運にも天明6年(1786年)7月12~17日、関東一円にわたって降り注いだ大豪雨によって利根川が江戸幕府開府以来の最大級の氾濫を起こし江戸に大水害をもたらすことはもとより、印旛沼では布鎌新田のマケ俵口の締切り工事(安食水門工事)や掘割など開削工事がことごとく破壊されてしまった。しかし、江戸幕府は江戸の復旧の見通しが立った時点において、再度、工事に着工する計画であったが、同年8月20日に徳川十代将軍家治が死去したことから8月24日には工事が中止、また8月27日には田沼意次の老中罷免が決定されたことによって天明の印旛沼開削工事は完全に夢と終わってしまった。

第1.2表 天明期における掘割計画

(3) 天保の掘割工事

 天明期に大噴火した浅間山から流出した火山灰の堆積によって河床上昇した利根川は、その後の天保期においても洪水を激発、また国内全体においても噴火、洪水、冷害、干害と、天災が続き、飢饉によって多くの餓死者がでていた。

 一方、当時、江戸幕府はアメリカをはじめ、西ヨーロッパの諸国から開国を強く迫られ、幕府としてもこの非常事態を念頭に内陸運河を整備し、また各地における産物の水運を急ぐ必要があった。このような社会情勢の中で、徳川12代将軍家慶を支え、老中首座となった水野越前守忠邦は、徳川政権始まって以来の政治的・経済的危機の打開を意図した「天保の改革」という統制令を発し、そしてこの一環として天保11年(1840年)11月に幕府は御勘定組頭五味与三郎と御勘定楢原謙十郎を享保期および天明期に失敗した印旛沼から検見川までの掘割工事における古掘り筋を調査させたが*注1)、その結果は満足し得るものではなかった。また翌13年(1842年)には篠田籐四郎に横戸村(現千葉市花見川区横戸)の高台と花島村(現千葉市花見川区花島町)の花島観音下の古掘割の試し掘をさせた。結果は、花島観音下は「ケトウ土(化灯、化泥)」と呼ばれる腐食土から成り立ち、工事は極めて困難とする報告であったが、水野忠邦は諸般の事情を鑑み*注2) 、天保14年(1843年)6月10日に洪水氾濫の防止対策を目的の一つとするも、主たる目的は水運(舟運)の整備に重点を置く(この目的以外に、外国軍艦による江戸湾封鎖に備えた国防があった)掘割工事の手伝普請を第1.3表に示すように、5人の大名に命じ、同年7月23日に工事を着手した。特に、この工事における特徴は、国役の御手伝普請*注3)のもとに、幕府の設計と監督により掘割工区を第1.3表のように杭で番号化し〔織田寛之(1893):印旛沼経緯記外編、152~162頁より作成〕、各藩の自己資金による工事請負であったこと、また天明の掘割工事において重要視されていた枝利根川(現将監川)の締め切りと安食地先における水門施設の工事は計画されていないこと、いわば平戸橋を起点とし、検見川の海口までの水路開削が主要な工事であったことである。実際、このことは、老中の連名で御手伝普請を行う藩に下された通達の末尾に「今般乃儀者沼内新開等之御趣意ニ者無之、水害御救、通船便利之ため川路御取開………」と書きしるされていることからも傍証される。

 工事は人夫不足や、劣悪な生活および労働条件による病人の続出、さらには膨大な経費にもかかわらず、約3ヶ月後には、全体計画の9割程度まで進捗した。しかし、花島観音下(現千葉市花見川区花島町)の渓谷では、“ケトウ*注4)”というアシ(葦)やカヤ(茅)の根、または木根の繊維からなる腐食土が堆積した軟弱泥のため、前述の「享保の掘割工事」と同様、工事がきわめて難儀*注5)をきたしていたことに加え、同年9月13日には老中水野忠邦が失脚したため、その10日後の9月23日には工事の中止命令が出された。しかし、その後も工事は、幕府の直轄事業として続けられたが、翌弘化元年(1844年)6月10日には工事が完全に中止された。

第1.3表  天保期における掘割工事と担当藩(大名)

*注1) 幕府は御勘定組頭・五味与三郎と御勘定・楢原謙十郎に天明期に行った堀割筋を検分させ可能性を調査させたが、その結果は水野忠邦が満足するものではなかった。

*注2) 当時、日本沿岸に外国の船が出現し、万一、江戸湾口が封鎖された場合、印旛沼を経由した水運を確保する必要があった。その頃、利根川の水運ルートは銚子から小見川、佐原、安食、木下を経て関宿まで行き、そこから江戸川を下り、江戸湾に出て、さらに隅田川を上るものであった。これが、印旛沼掘割工事による計画では安食から長門川をとおり印旛沼に入り、平戸村(現八千代市)から検見川村(現千葉市花見川区検見川)を経て、江戸湾に入り、品川と結ぶことであった。

*注3) 「御手伝普請」とは、幕府が特定の大名に命じて普請を行わせるもので、藩が工事のため資材や人足などを独自に負担する。ちなみに、江戸時代にはご普請(幕府や藩や旗本などが主導の元に行う工事)と自普請(農民、町民が自らの負担で行う工事)の区別があり、前者はさらに、公儀ご普請、領主ご普請、国役ご普請、大名手伝ご普請の4つに分けられた。

*注4) ケトウとは、ヨシ、マコモなどの水草の遺骸が繊維を残したまま地中に堆積した土壌を示し、泥炭と類似語。

*注5) このケトウ掘割工事の難儀の様子については、庄内酒井藩の工事を記録した「続保定記」に『因洲様、播州様御丁場所内に、化燈(ケト)と申す泥土の場所多く之れ有り、是れ大難場、馬ふんごとき土にて、水気甚だしき所は湧き出で、只どろどろと云う物にて、鍬にもすきにもかかり申さず、只水のごとき、くみ干し候よりほか之れ無く、その上いか程掘り候ても、一夜の内に泥土涌き出し埋まり、又は川形より五六間乃至十間、十七八間ばかり脇の方、山・畑・田面等割れ、掘り割りへなだれ落ち候体にござ候。・・・・』、と記されている。

1.2.2 昭和期における開発

 昭和期における印旛沼開発といえば、今日の印旛沼を形取り、大成功裏に終わった昭和44年(1969年)竣工の「印旛沼開発事業」と思われがちである。しかし、その開発の歴史的背景の中にあって、吉植庄亮が設立した吉植農場の存在とその果たした役割は極めて大きいといえる。このことから、ここでは、最初に吉植庄亮と吉植農場に触れ、その後に昭和期の「印旛沼開発事業」について述べる。

(1) 吉植庄亮と吉植農場

 吉植庄亮は、牛飼いの歌人として有名な伊藤左千夫や古泉千樫と並ぶ千葉県の代表的歌人として名高いが、先祖は染谷源右衛門らによる印旛沼開削工事の挫折後の亨保15年(1730年)に長門川締め切りを佐倉領主の松平左近将監融邑に陳情した願人の一人である笠神埜原新田(現印西市笠神)の名主庄左衛門、また父親は日本の国政に携わる一方、利根川の印旛沼への逆流を防止するため利根川の派川である将監川の締め切りと安食地先における印旛水門の建設を推進した吉植庄一郎である。

 庄亮は大学卒業後、東京で新聞記者として働く傍ら、歌人としての地歩を固めていたが、大正12年(1923年)の秋、開墾を思い立ち郷里に帰ることを決意、そしていろいろな調査を行った後、大正14年(1925年)の秋から大型トラクターを農林省(現農林水産省)から借り受け本格的な開墾を始めた。しかし、この開墾の動機には、庄亮の父である庄一郎が中心になって推進した印旛水門が大正11年(1922年)3月に竣工し、印旛沼埜地の洪水被害が少なくなったことと相まって、今まで放置されてきた低湿地の開発が可能になったことがある。開墾は順調に進み、その様子は、「…大正14年(1925年)から開墾を始め昭和4年度(1929年度)までの開墾地区50町歩、植え付け面積40町歩、内36町歩水田である。そして初年度(昭和元年)植え付け約5町歩、次年度(昭和2年度)植え付け16町歩、昨年(昭和3年度)植え付け26町歩、本年(昭和4年度)植え付けは36町歩になっている。その成績は………」と、吉植自身が書き残している〔吉植庄亮(1929):百姓1年生の言葉『米の貌』、p.124〕。

 このように、庄亮はトラクターによる開墾を進め、大規模な自作経営を行ってきたが、昭和10年(1935年)4月3日(神武天皇祭)に多数の農民による集約的共同経営の農業を開始するため、全国を奔走して募集した20戸50人(山形県から10戸、富山県から5戸、千葉県から5戸の家族)の入植式を挙行、また同年秋には、さらに10数戸の入植者*注1)を迎え入れた。そして一方では、翌年(1936年)2月に庄亮自身、衆議院議員に千葉二区より立候補し最高点で当選し、代議士として華々しく活躍していたが、この間、昭和13年(1938年)9月1日の暴風雨と翌日2日の豪雨によって吉植農場の水田すべてを含め、印旛沼周辺の水田200町が水害を受け、また昭和16年(1941年)7月には明治以来、印旛地方最大の大水害をもたらした利根川の水が安食水門を越え長門川に落ち込み吉植農場を完全に呑み込んでしまった。そして、折しも同年12月8日には太平洋戦争が勃発し、吉植農場においても農資材の不足や徴兵によって小作人が去り、農作がはなはだ困難になった。このため、八生農学校や印旛実業学校などの生徒の力を借りて辛うじて農作を維持していた。そして昭和20年(1945年)8月15日終戦、同年12月の占領軍による第一次農地解放令、昭和21年(1946年)10月の第2次農地解放令によって吉植農園の入植者は自作農となって、吉植農園は4町9反を残し、解散したのである。

 その後、庄亮は、昭和23年(1948年)公職を追放され、歌人活動を再開していたが、昭和27年10月に開かれた第1回印旛沼土地改良区設立準備員会において山崎時治郎木下町長の推薦により設立委員長に選出された。そして昭和27年(1952年)12月12日には総会が開かれ土地改良区の認可申請が可決され、翌昭和28年(1953年)6月10日には「印旛沼土地改良区」*注2)設立が認可されたのである。

*注1)入植に際しての条件

農林省指定の21坪半のトタン葺平家と14坪半藁葺平屋に入り、一戸当たり平均水田1町5反を所有。小作料は2俵半。

*注2) 「土地改良区」とは

土地改良法に基づく都道府県知事の認可法人で、一定の地域内の土地改良を目的として、国および県が行う圃場整備事業などの事務を行う。「印旛沼土地改良区」は、昭和27年10月に第1回印旛沼土地改良区設立準備委員会が開催、同年12月に委員会総会で認可申請が可決、翌年6月10日に正式認可された。

(2) 印旛沼開発事業

 昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争の終結とともに、わが国は深刻な食糧難と戦地(満州や朝鮮等)からの引き揚げ者(農民や技術者など)の失業対策に困難をきたしていた。その解決策として政府は、同年10月に155万haの開墾、10万haの新規干拓、210万haの既存農地の土地改良を行うこととする「緊急干拓事業(食糧増産計画)」を閣議決定(農林省は琵琶湖、八郎潟など13箇所を湖沼干拓し、3,013町歩の美田を作る工事を計画)、そして翌昭和21年1月には、その一環として印旛沼で2,282 ha(手賀沼783ha)の干拓、八千代市~検見川間16.5kmの疎水路工事の掘削土を利用して検見川地先海面を干拓して435ha の畑地を造成、また印旛沼周辺では5,256ha(手賀沼周辺で1,834ha)の土地改良を行うとする当初計画が作成され、農林省直轄で行う「国営印旛沼手賀沼干拓事業」が決定された。そして10カ月後の11月10日には早々と起工式が安食国民学校(現栄町立安食小学校)で行われ、また翌月の12月には成田市宗吾霊堂宝物殿の一室を仮事務所として事業が開始された。

 しかしながら、この事業の当初における全体計画は、極めて大規模で相当の期間を必要とする、いわば理想に満ちた計画であったため、昭和25年(1950年)には見直しされ、新たに印旛沼疎水路の掘削を基幹工事として昭和29年(1954年)3月に完成予定の第1期事業計画が作成された。しかし、工事は、疎水路の用地買収が捗らず(昭和26年現在においても一部妥協したにすぎない状況であった)、難航をきたし、計画はほとんど未施行の状況にあった。

 一方、この間、国内では農家の増産体制が化学肥料の安定供給にともなって整い、国民の食糧事情が変化し始めていた。また、昭和26年(1951年)には千葉県の臨海部埋め立ての先駆け(京葉臨海工業地帯造成)となった川崎製鉄株式会社(現JFEスチ-ル株式会社東日本製鉄所)の千葉県進出が決定、そして昭和27年(1952年)4月に締結したサンフランシスコ条約に基づく多量の食糧輸入などが相まって、全国的にも、ただ単に食糧増産を第一義とする干拓治水工事は、社会的に方向転換を余儀なくされるようになった。

 このような状勢のもとで、印旛沼では昭和28年(1953年)の土地改良法の改正にともない、当初事業計画の印旛沼・手賀沼両沼の一括排水を改め、手賀沼関係を分離した計画として、昭和29年(1954年)10月には、干拓のみではなく、周辺起耕地の土地改良事業を含めた干拓土地改良事業の基本方針が決定、そして昭和31年2月(1956年)には、「国営印旛沼干拓土地改良事業第1次改訂計画」が昭和28年6月に設立された「印旛沼土地改良区」の同意を得て、事業が確定された。

 この事業計画は、一般的には「第1次改訂計画」と称されているもので、主な内容としては疎水路最大水量を93m³/秒、印旛沼機場の最大計画排水量を80m3/秒にそれぞれ増やし、また干拓地の造成面積を1,690haとし、土地改良面積を当初計画に近い5,278 haに拡大するなど、従来の干拓事業に比べ、むしろ利水との関連で水管理施設等に重点が置かれ、昭和40年度完成を目指すものであった。

 工事は計画に沿って順調に始められたが、昭和33年(1958年)5月に本事業の主体である農林省内部において計画そのものに対する批判が生じる一方、千葉県臨海部では昭和32年(1957年)に五井・市原地先、昭和33年(1958年)に幕張地先、昭和34年(1959年)に市川市二俣地先、昭和36年(1961年)に新日鐵の誘致決定にともなう君津市人見地先、昭和36年(1961年)に五井・姉ヶ崎地先、昭和37年(1962年)に千葉市生浜地先などで矢継ぎ早に行われた海面埋め立て地に進出が予想される企業に対する工業用水の需要拡大に対応するため、「第1次改訂計画」の更なる改訂が求められ、昭和38年(1963年)3月には利水工事(水管理)に重点を置いた「国営印旛沼干拓土地改良事業第2次改訂計画」が樹立された。

 折しも、国では、人口増や急速な産業の発展に基づき需要が高まる上水および工業用水の確保を目的として、利根川など水系全体の水需要の調整が最重要課題とされ、昭和36年11月には水資源開発促進法が制定された。そして翌37年5月には水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)が設立され、これにともなって建設省(現国土交通省)直轄であった利根川水系の矢木沢および下久保ダム事業は公団に移管、また農林省直轄の印旛沼干拓土地改良事業も利根川水系の一環として、昭和38年4月に「印旛沼開発事業」と名称を改め、公団に移管された。

 事業移管後は、各種関連工事が次々と着工され、昭和41年(1966年)には大和田排水機場工事〔着工:昭和38年12月(1963年)〕と、酒直水門および酒直機場工事〔着工:昭和40年(1965年)〕、昭和42年(1967年)に捷水路掘削工事*注1)〔着工:昭和40年(1965年)〕、昭和43年(1968年)に疎水路工事*注2)と西印旛沼堤防工事〔着工:昭和39年(1964年)〕および北印旛沼堤防工事〔着工:昭和40年(1965年)〕のそれぞれが竣工、そして昭和44年(1969年)3月には一部の未着手地区を除き印旛沼開発事業の竣工式を迎え、これによって承応3年(1654年)の「利根川東遷事業」完成から、実に315年間にわたって苛まれた印旛沼の水害(洪水)は、その過酷な歴史に終止符を打ったのである。

 最後に、第1.4表には〔水資源開発公団印旛沼建設所編集・発行(昭和44年3月):「印旛沼開発工事誌」より一部抜粋および一部加筆〕、今まで述べてきた印旛沼開発事業計画の経緯、概要および特徴について取りまとめて示す。

第1.4表 印旛沼開発事業計画の経緯と概要

*注1) 捷水路(しょうすいろ):陸地を掘削して川や沼の水の流れをよくするための人工水路。

*注2) 疎水路(そすいろ):陸地を掘削して灌漑、舟運や排水のための人工水路。